不安
 友人シャーロック・ホームズを、昨年の秋、とある日に訪ねたことがあった。すると、ホームズは初老の紳士と話し込んでいた。でっぷりとし、赤ら顔の紳士で、頭髪が燃えるように赤かったのを覚えている。私は仕事の邪魔をしたと思い、詫びを入れてお暇しようとした。だがホームズは不意に私を部屋に引きずり込み、私の背後にある扉を閉めたのである。
「いや、実にいいタイミングだ、ワトソンくん。」ホームズの声は、親しみに満ちていた。
「……君は、仕事をしているのではないのか?」
「そうだ。それもとびきり重要な仕事ときている。」
「では、私は奥で待つとするか。」
「まぁ、待ちたまえ。この紳士は……ウィルソンさん、長年、僕のパートナーでして。僕はこれまで数々の事件を見事解決してきましたが、その時にはいつも、彼が助手を務めています。あなたの場合にも、彼が大いに役に立つことは間違いありません。」
 でっぷりとした紳士は軽く腰を上げただけで、申し訳程度の会釈をしつつも、脂肪のたるみに囲まれた小さな目で、私を疑わしげに見るのであった。
「さぁ、かけたまえ。」とホームズはソファをすすめた。自らも安楽椅子(アーム・チェア)に戻ると、両手の指先をつきあわせた。さぁどうしようか、というときにするホームズの癖であった。「そうだね、ワトソンくん。君の好みは、僕の嗜好と同じだ。我々は毎日、決まって退屈に一日を過ごしているが、これを一掃する奇怪な出来事へ傾倒している。わかるんだ、いかにも好きだと言わんがごとく、熱心に僕の事件を記録しているから。しかし、少し言わせてもらうが、記録では、僕のささやかな冒険の多くが幾分、色を付けられているね。」
「君の事件の数々、とてつもなく面白かったよ。」と、私は様々な事件のことを考えた。
「僕のいつぞやの発言、覚えているだろうね? そう、メアリ・サザランド嬢の初歩的な事件(※1)に出向く前の、あの発言のことだ。不思議な事件や、偶然の一致。我々がそれを求めるなら、我々は現実の中を探しにゆかねばならぬ。現実というのは、どんな想像力をも凌駕するのだから……」
「私が、遠慮なく疑問を呈させていただいたはずだがね。」
「ふん、でも博士(ドクター)、最後には僕の意見に賛同しなければならなくなる。さもなくば、どこまでも君の目の前に事実、事実、事実、と積み重ね続けるまでだ。君の論拠が事実という証拠の前に崩壊して、僕が正しいと認めるまでね。
 ところで、ここにいらっしゃるジェイベス・ウィルソン氏が今朝、訳ありで僕を訪ねていらしたのだが、そのお話によると、この事件は近頃の中でも頭ひとつ抜きんでたものになりそうだ。いつも言うように、不思議きわまりなく、独創的な事件というものはとかく巨大な犯罪には現れてこない。むしろ小さな犯罪の中に姿を現す。また時折、一体犯罪が行われたのかどうか、それすら判然としないようなところにも現れる。うかがった限りでは、目下の事件が犯罪として扱える、とは明言できない。しかし今回の成り行きは、多くの事件と比べても、異端だと言える。
 恐縮ですがウィルソンさん、もう一度お話を聞かせてくださいませんか。といいますのも、友人であるワトソン博士が初めの辺りを聞いてませんし、事件が事件ですから、事細かな部分まで貴方の口からできるだけうかがっておきたいと思うからです。いつもなら、事件の成り行きをほんの少し聞くだけでいいんです。僕の記憶の中から、似たような何千もの事件の例を引き出し、捜査を正しい方向へ導けます。しかし本件の場合、僕の見たところでも、比較材料のない事件と言わざるをえません。」
 恰幅のよい依頼人はいくぶん誇らしげに胸を張った。汚れてしわくちゃになった新聞を、厚地のコートの内ポケットから取りだした。ひざの上で広げ、しわを伸ばしている。首をさしのべ、広告欄に目を落とした。私は男の挙動を観察し、わがパートナーのやり方にならって、男の服装や態度から何者であるかを読みとろうとつとめた。
 しかしながら、観察しても何も見えてこなかった。どこをどうしても、ごく一般的な英国商人である。でっぷり太っていて、もったいぶった鈍重な動作。ややだぶついた灰色の弁慶格子(シェパド・チェック)のズボン、くたびれた感じの黒いフロックコート(※2)を着て、コートの前ボタンを外していた。あわい褐色(ドラッブ)のベストからは太い真鍮製のアルバート型時計鎖(※3)が垂れ下がっていて、先には四角く穴のあいた金属の小片が装飾品としてついていた。すり切れたシルクハットと、しわだらけのビロード(※4)の襟が付いたくすんだ褐色のオーバーが、そばにある椅子の上に置かれてあった。そうして観察しても、結局わかるのは、男の燃えるように赤い髪と、ひどくくやしげで不満そうな表情だけだった。
 シャーロック・ホームズの炯眼(けいがん)に、私のしようとしたことは見抜かれていたようだ。私の疑問に満ちた一瞥に気づくと、笑いながらかぶりを振るのであった。「いや何、わからないね。この方が過去、手先を使う仕事にしばらく従事していらっしゃったこと。嗅ぎ煙草を愛用していらっしゃること。フリーメイソン(※5)の一員でいらっしゃること。中国にもいらっしゃったこと。近頃、相当な量の書きものをなさったこと……これだけははっきりとわかるのだが、後はまったくわからない。」
 ジェイベス・ウィルソン氏は椅子からすっくと立ち上がり、新聞を片方の人差し指で押さえたまま、目をわがパートナーの方へ向けた。
「え……ど、どうやって、どのようにしてそのことをご存じなんですか、ホームズさん。」ウィルソン氏は驚きのあまり、言葉を口に出す。「その……ああ、ほら、私が手先を使う仕事をしていたことを? ずばり間違いありませんよ。わしは船大工からたたき上げたんですから。」
「手ですよ、貴方のね。貴方の右手、左手より一回り大きいでしょう? 右手を使って仕事をしていらしたんですから、その結果、その部分の筋肉が発達してしまったのです。」
「ほぉぉ、なるほど。なら、嗅ぎ煙草……フリーメイソンであることは?」
「どうやって見抜いたのか、それは詳しく申さないことにしておきましょう。貴方のように賢い人には無礼に当たりますから。それに……とりわけ、貴方はフリーメイソンの厳格な規律に背いて、身分を表す円弧とコンパスのブローチをつけていらっしゃいますし。」
「あ、本当ですな。うっかりしてました。しかし、書きものに関しては……」
「右の袖口に五インチ(※6)ほどのてかりがあります。左もしかりで、ちょうど机に当たるひじのあたりですね。つるつるして変色した部分があれば、これは書きもの以外に何で説明づけましょう?」
「ふむ、では中国のことは?」
「魚の刺青(いれずみ)が、右手首のすぐ上に彫ってあります。これは中国へ行かなければ彫れないものです。僕はこれでも、刺青の絵柄についてささやかな研究をしたことがありまして、その方面には論文を書いて寄稿したこともありますよ。このほのかなピンク色の魚鱗、中国の極めて独特な特徴です。それに今、中国の硬貨を時計鎖から下げていらっしゃる。これで理由は明らかでしょう?」
 ジェイベス・ウィルソン氏は大笑いし、「いやはや、こんなの初めてだ!」と言った。「わしは初め、あんたが何かうまい方法でも使ったのかと思っとった。だが、結局は何でもないことなんですな。」
「覚えておこう、ワトソン。」ホームズは私の方を向いた。「細々と説明するのは損だ、とね。『未知なるものはすべて偉大なりと思われる。』……僕の評判もあまり大したものでもないが、あまり正直にしゃべっていると、やがては地に落ちてしまうよ。ところでウィルソンさん、広告は見つけられましたか?」
「ええ、見つけましたとも。」ウィルスン氏は太く赤い指を中ほどの欄に下ろした。「これです。これが事の始まりだったのです。自分自身でご覧になって下さい、ホームズさん。」
 私は新聞を受け取り、次のように読み上げた。
赤毛連盟に告ぐ――米国ペンシルヴァニア州レバノン(※7)の故イズィーキア・ホプキンズ氏の遺志に基づき、今、ただ名目上の尽力をするだけで週四ポンド支給される権利を持つ連盟員に、欠員が生じたことを通知する。赤髪にして心身ともに健全な二十一歳以上の男性は誰でも資格あり。月曜日、十一時、フリート街(※8)、ポープス・コート七番地、当連盟事務所内のダンカン・ロスに直接申し込まれたし。
 私は、この奇怪極まる広告を二度読み返した。
「……意味がさっぱりわからん!」口をついて出たのは、こんな叫びだった。
 ホームズはくすくすと低い声で笑い、椅子に座ったまま身体を揺すった。これはホームズが上機嫌のときの癖である。「これはこれは、少々常軌を逸した話だ……ほぅ。」とホームズは呟く。「ではではウィルソンさん、早速取りかかりましょうか。貴方と家族のこと、そして広告に従った結果、生活にどんな影響があったのかを教えてください。博士、君は新聞の名前や日付を書き留めてくれないか。」
「一八九〇年四月二十七日、モーニング・クロニクル紙(※9)。丁度二ヶ月前だ。」
「うん、結構。ではウィルソンさん、どうぞ。」
「ええと、それは先ほどシャーロック・ホームズさんに言ったとおりで……」ジェイベス・ウィルソンは額の汗を拭い、話を続けた。「わしは中心区(シティ)(※10)あたりのコバーグ広場(スクエア)で小さな質屋業を営んでおります。と言っても、手広くやっているわけでもなく、近頃はどうもさっぱりで、一人でようやく暮らしていけるという有様ですわ。昔は店員を二人雇うことが出来たんですが、今は一人しかございません。本来ならわしが、あれのために別の仕事をしなくちゃ給料を払えないんですが、本人が見習いでいいからと他の半分の給料で来てくれとるんです。」
「その見上げた青年の名前は?」シャーロック・ホームズは尋ねた。
「名を、ヴィンセント・スポールディングと言うんですが、青年というほどじゃありません。あれは年の見当がつかんのです。だが、店員としてはとても利口なやつでさぁ、ホームズさん。他で働きゃあ今の倍は稼げる腕があると、わしゃ踏んどるんです。まぁ、あれが満足してるんだから、入れ知恵する必要もありますまい。」
「確かに、その通りです。貴方も運のいい人だ。相場以下で従業員を雇っているとはね。今のご時世、なかなかそううまくはいかないものです。変わりものという点では、その従業員と広告、甲乙付けがたいと言えますね。」
「いや、実は、あれには欠点もありまして……」ウィルソン氏は苦い顔をした。「あれほど写真の世界につかりきった男はそこいらにおりますかな? あれは見習い修業もせなならんのに、カメラを持ち出して、ぱちぱちぱち、とやっては、ウサギが穴にはいるように地下室へ潜り込んで、写真を現像しよるんです。それがあれの粗なのですが、大まかに見りゃあ、いい仕事をしとります。悪いやつでもありゃしません。」
「察するに、彼はまだ店にいると?」
「ええ、そうですとも。あれと十四になる娘っ子がおります。これが簡単なまかないと掃除をしてくれとるんですわ。わしの家はこれだけです。わしは男やもめでして、家族もありません。わしらは三人でひっそりと暮らしているんですよ。たいしたこたぁできませんがね、一つ屋根の下で夜露をしのぎ、借りた金を返すくらいのことはしております。
 そこへこの広告ですよ。この広告が面倒の始まりだったんでさぁ。スポールディング、あれがちょうど八週間前、まさにこの新聞を手に持って、二階から降りてきて言うんですよ、
『ウィルソンの旦那、あっしも髪が赤かったらなぁ。』って、そこでわしは聞き返しましたよ。
『そいつはどうして?』って。
 するとあれは言うんです。『なぜって、ここに赤毛連盟の欠員があるんですよ。ここに入ればどんなやつでもちょっとした金持ちになれるんですよ。何でも、連盟の欠員を埋める人間が足りないらしくて、遺産管財人が宙に浮いた金をどうしていいか途方に暮れているらしいそうですぜ。あっしの髪の色が変えられたら、連盟に入って金をくすねてやったのに。』
 だからわしは、『何、そいつぁ一体何の話だ?』と聞いてやりましたよ。ほら、ホームズさん。わしは職業柄、出不精なんですよ。こっちから行くんじゃなくて、向こうから来てくれますからね。だから何週もドアマットをまたがないこともめずらしくないんで。……そんなわけで、世間のことにはてんで疎いもんで、ちょっとしたニュースでも聞くと、気になってしまって。
 するとあれはね、『赤毛連盟のことをご存じないんですか?』と、眼を丸くしやがるんですよ。
『ないなぁ。』とわしが答えると、
『ふぅん、そいつは不思議だ。旦那は空席にぴったりの資格を持っているっていうのに。』
『それは、どんないいことなんだい?』とわしは詳細を聞こうとしたんですわ。
『まぁ、たった一年に二百ポンド(※11)ってところですが、仕事はわずかなもんですから、他の仕事の妨げにはなりませんぜ。』
 ってな訳でしてね、わしが耳寄りな話だと思ったのも無理ないことでしょう。ここ数年は商売がうまくいってなかったもので、一年に二百ものあぶく銭がありゃあ、とてもありがたいですから。
『詳しく聞かせてくれないか?』とわしはとうとう本腰になってきました。
『ええ。』と、あれはそう言って、あの広告をわしに見せるんです。『旦那、ほらここに空席があるでしょう、問い合わせ先だって載ってますぜ。なんでも、その連盟ってのは百万長者の米国人、イズィーキア・ホプキンズっていう変人が設立したらしくて、そいつ自身が赤毛だったもんだから、同じ赤毛の人間に大きく共感するらしいんです。てなもんで、死んだときに莫大な遺産を管財人に預けて、その利子を使って、自分と同じ色の髪を持つ男が楽に暮らせるように金を分配してくれ、と死に遺したらしいんです。話によると、給料の気前はいいくせして、することはほとんどないときたもんだ。』
 わしはそこで少し不安になりました。『だが……志願してくる赤毛の男など、世間には五万とおるだろう?』
 だがあれはこう言うんで。『旦那が思うほど多くおりませんぜ。ロンドン市民限定で、立派な大人じゃなくちゃなりません。何でもその米国人は若いときロンドンから身を立てたみたいで、この懐かしい街に何か恩返しがしたいんだとさ。それに赤毛といっても、薄いのや黒っぽいのはダメで、本当にきらきら燃えるような赤毛じゃなくちゃなりません。ほらほらウィルソンの旦那、申し込みたいんだったら、ちょこっとそこに顔を出しゃいいんですが……旦那がたかが二、三百ポンドの金で出向かれることもないですよね。』
 そこまで言われてですね、事実、わしゃこの通り髪はまったくすばらしいほどの赤い色合いをしておりますので、このことで競うなら今まであったどんなやつにだって負ける気すらせんのですわ。ヴィンセント・スポールディングは連盟のことに詳しくて、役に立つかもしれんので、その日は店を閉めて、ついてくるように言いつけましたよ。あれも今日一日が休みになるのを喜びましてね、わしらは仕事を切り上げて、広告に示してある住所へと向かったんですわ。
[PR]
by i000148 | 2006-03-04 11:29